#11 世界をだました男 フランク・アバグネイル Jr. が語る我が人生

講演中のフランク・アバグネイル Jr. 氏
講演中のフランク・アバグネイル Jr. 氏[図1]

今回は、前回取り上げたフランク・アバグネイル Jr. (Frank William Abagnale, Jr.) のスピーチを取り上げる。ご本人と連絡を取ったところ、秘書の方を通じて、たくさんの書物の提供とともに、FedTalks 2013 でのスピーチを取り上げることをお許しいただいた。

このスピーチは、「ワシントン DC を代表する 500 人の職員」のひとりとして彼自身の人生を語るもので、普段はコンサルタントという立場から硬い話の多い彼が、自らの過去の悪事をおもしろおかしく取り上げる様に、会場には笑いが絶えなかった。ぜひご覧いただきたい。

Catch Me if You Can: A Lesson in Security and Identity Management

in FedTalks 2013

※ 注意 ※

  • スピーチが長いため、一部を省略している。
  • 邦訳にあたり、意訳や、表現の調整、説明の追加などを行っている。
  • 細心の注意を払い翻訳しているが、内容に誤りがある可能性がある。
  • 元の発言は、YouTube の映像などを参照いただきたい。

 

今日、この場で皆様にお話しできることをありがたく思います。

私が登壇するときは、いつも不正やサイバー犯罪、偽造、詐欺などの話ばかりですが、今日はこれまでとは違い、自分が歩んできた人生について皆さんにお話したいと思います。

私の人生は、創造性豊かな方々によってミュージカルや本、映画になり、テレビでも有名になってしまいました。しかし、制作者の方々には、個人的には一度もお会いしたことのない人もいます。思うに、彼らは彼らの視点から私の人生を描いているのでしょう。

今回は、私の視点から自分の人生をお話したいと思います。

 

私は、ニューヨークの北部で四人兄弟の真ん中として生まれ、幼稚園から高校までカトリックの学校に通いました。

16 歳のとき、両親が離婚することになった、と兄が教室まで迎えに来ました。玄関に出ると、父が荷物を持ってくれ、「お兄ちゃんと一緒に郡庁所在地の家庭裁判所まで行ってくれるかい?」と言いました。そのときに初めて、両親に何が起きているのかを聞かされました。

「車から降りたら、階段を上ってロビーに行くんだよ。そこで待ってるから」と言われ、その通りに階段を上りながら窓の外を眺めましたが、あまりにショックで何も考えられませんでした。

 

ロビーに両親はおらず、その先の法廷に両親がいました。すでに裁判が始まっていたようで、私は訳も分からず、裁判官に言われるがままに両親の間に立ちました。裁判官は、一度も自分と目を合わせてくれなかったことを覚えています。

そして自分のことなど無視するようにして紙に書かれた判決文が読み上げられ、両親の離婚が成立したことが宣言されました。そして、私は 16 歳だったので、両親のどちらと一緒に生活するのかを選ぶように言われました。私は泣きながら法廷を飛び出しました。

両親のどちらかを選ぶとき、裁判官は 10 分間の猶予をくれました。しかし、両親はロビーに出たまま自分には声も掛けてくれず、目も合わせてくれなかったのです。だから私は逃げ出し、そのまま家出してしまったのです。

当時、ヒッピー映画やドラッグ映画が流行っていたこともあり、家出はありふれていました。普通なら家に戻って家出の準備をするところですが、グランド セントラル ターミナルに行き、短距離の電車に乗ってニューヨークに向かいました。

 

父がマンハッタンの文具店で配達の仕事をしており、ニューヨークについてはそれなりに知っていたので、自然と配達の仕事を探すようになりました。広告を見ていくつかの求人に応募しました。採用担当に歳を聞かれ、「16 歳の高校生です」と答えました。

16 歳の自分にとって、いくばくかの給料は稼げましたが、生活をするにはとても足りないことにすぐ気付きました。16 歳だとわかると、給料が抑えられてしまうのです。当時、私は、身長が 6ft. (180cm 超) あり、髪の色が灰色だったこともあって、高校では週に一度の正装の度に「先生のように見えるぜ?」と言われていたことを思い出し、年齢を偽ることにしました。

 

ニューヨークでは、運転免許証は 16 歳から取得できますが、未成年だと写真が貼られないため年齢がバレてしまいます。そこで、私は 1948 年 4 月生まれですが、10 年早く生まれたことにし、26 歳と偽って別の身分証明書を作りました。

年齢をごまかして仕事に応募すると、お金は多少多くもらえるようになりましたが、それでも足りません。そこで、父から貰っていた小切手帳に 10 ドル・20 ドルと書いては、小さな町の銀行で換金していました。

 

窓口に小切手を出すと、銀行員は「ミドル マンハッタンで口座を開いていないのは君くらいだよ」と言いながら、後ろのデスクのスタッフと「小切手でいい?」「はい、大丈夫です」などとやり取りをしましたが、小切手には触れようともしなかったので、その小切手に何か手を加えてお金を得られないかと考えました。しかしそれはうまくいかず、結局お金を使い果たしてしまいました。

(残高不足で) 小切手に金額を書くことができなくなってしまい、ただ書けたことと言えば、ノートに「銀行員は容姿や振る舞いで人を判断している!」ということくらいでした。

 

途方に暮れ、そろそろニューヨークを去らないといけないのかも、と考えていたところ、コンコルド ホテル、今のグランド ハイアット ホテルの正面玄関から、イースタン航空のパイロットたちのグループがバンに乗って空港へと向かう様子を見掛けました。私はひらめきました。「これだ! パイロットならタダで世界を回れるし、どこでも簡単に換金できるようになるに違いない!」

 

そう思いながら歩いていると、大型ヘリコプターの音が聞こえました。見上げてみると、ニューヨーク航空のビルにパンナム航空のヘリコプターが着陸するところでした。

パンナム航空は、アメリカを象徴する航空会社です。自分が身分を偽るのに完璧な会社です。

次の日の朝。私は電話帳を開き、何をどう話したものかと思案しながら、パンナム航空に電話を掛けました。

 

「おはようございます。パンナム航空です。どのようなご用件でしょうか?」

「あの、購買担当の方とお話したいのですが」

「購買ですね? お待ちください」

 

購買の担当者に取り次がれると、私は言いました。

「サンフランシスコ支部の副操縦士ジョン・ブラックです。7 年間勤めていてこんなことは初めてなんだけど...」

「どうなさいましたか?」

「昨日、ホテルで制服をクリーニングに出したんだ。でも見つからないと言われてしまったんだよ。フライトまであと 4 時間しかないのに制服がなくてね。サンフランシスコに戻れば替えの制服があるんだけど、それだとフライトに間に合わないんだ」

「わかりました。少々お待ちいただけますか。ええと、50 番通りにある制服を調達している会社に行ってください。この件についてはお伝えしておきますので」

 

そんなやり取りを経て、金の三本線が入った副操縦士の制服を入手しました。

私は言いました。

「おいくらでしょうか?」

「250 ドルです」

「わかりました。それじゃあ小切手でお願いします」(冒頭の小切手の話を織り交ぜた冗談である。)

「すみませんが、小切手は受け付けていないんです」

「あ、そうなんですね。それじゃあ現金で」

「現金も受け付けていないんです。このコンピューターに社員番号と名前を入力するだけで大丈夫です」

「そうですか。じゃあそれでお願いします」

私は内心、「これはいいね!」と思いました。

 

さあ、ここからが大変です。どうやって飛行機に乗ればいいのでしょうか。

JFK 空港に行って昼食を取っていると、機長と乗組員と思わしきメンバーが話し掛けてきました。

「やあ。パンナムはどうだい? 君はどの機体でどんな設備を担当しているんだい? ボーイング 707 に乗っているのかい?」

 

もちろん、私には何の知識もありません。心の中では「どんな設備だって? (ホテルや賃貸住宅で言う) トイレのことを言っているのか?」などと思いながら、「そうだね、飛行機には翼があって、エンジンがあって...」と冗談交じりに答えました。

ただ、コックピットに行ってみても、皆話すことは同じだったことには驚きました。

 

偽造の身分証明書も作り、パイロットとして順風満帆にいきかけたころ、FBI が小切手偽造について調査を始めました。その犯人を探るべく、私の周りにいる関係者に話を聞いて回るようになります。30 歳近くと偽ってはいましたが、私はまだ 18 歳です。身の危険を感じて、ジョージア州フルトン郡のアトランタに移動しました。

リバーベンド アパート (Riverbend Apartments) の入居手続きをしていたところ、職業を記入する欄がありました。パイロットと書こうとしたのですが、会社の所在地・連絡先や管理者を記入しなくてはならず、もし問い合わせをされても困らないような職業の方がよいと思いました。あわせて、高級車や上等な服を持っていて、あまり働いていなくても疑われない職業がいいと考えました。

私は何を思ったのか「医者」と書きました。最初に思い付いたのが医者でした。

 

申請書を提出すると「あら、お医者さんなんですね」と聞かれました。

「はい、そうです」

「何のお医者さんなんですか?」

思いもよらない質問に、しどろもどろになりながらも「あっ、その...、メディカル ドクターです」と答え「ただ、今は臨床にいるのではなく、アトランタで何かできないかとロス (ロサンゼルス) からやって来たばかりなんです」と続けました。

「面白いですね。何科のお医者さんなんですか?」

「小児科医です」

その後、偽名を使って小児科に潜り込みました。

 

病院で医者同士が会話をすると、いつも出身大学が話題になります。

「ニューヨークのコロンビア大学です」

「研修はどちらの病院で?」

「ハーバード小児病棟です」

 

そこに患者がやって来ました。

「先生、私の脚を診てもらえませんか? どうすればいいのかわからないんです」

「それは大変ですね。まずは検査をしましょう」

私はたまたまやって来た看護師に、検査室に連れて行くように言いました。

私は若かったですが、馬鹿ではありませんでした。

 

数か月が過ぎたあたりで、あることをきっかけに病院を去ることになりました。

その 2 か月後、ルイジアナ州の司法試験を受けて合格すると、法科予備校に通いました。当時の司法試験制度では、法学部卒業という条件はありませんでした。

1 年間弁護士として過ごした後、仕事を辞めてルイジアナ州を後にしました。

 

その後、フランスで逮捕されることになります。私は独房に放り込まれました。

アメリカに送還され、最高裁で詐欺の有罪判決を受け、未成年であったにもかかわらず 12 年の禁固刑が言い渡されましたが、26 歳で刑務所から仮釈放され、残りの刑期を FBI で働くように言われました。私はそれに同意しました。

 

私の人生はそのような感じです。世界中の方々から、毎日たくさんのメールを受け取ります。皆さん感銘を受けたと言ってくださいますが、私は生きるためとは言え、50 年前には紙切れ (小切手) を使って違法行為に手を染めました。道徳、法律、倫理、すべてに背いて生きていました。

 

両親の離婚で、私は他に選択肢がなく家出しました。ホテルで自分の誕生日や、母の日、父の日などのイベントの日を迎える度に、かつて、私たち兄弟が寝る前に、いつも父が「愛してるよ」と囁いてキスしてくれたことを思い出しては一人で泣いていました。父がこれを欠かしたことは、一度たりともありませんでした。

 

離婚は、子供にとって、とても残酷です。子供は、その後の人生を費やしても、それをどうにかすることなんてできません。

私は、両親のどちらか一方を選ぶように言われましたが、どちらも選べませんでした。だから家出したのです。

 

両親を恋しいと思うころに一人泣き、信頼できるのはバイトの同僚しかいないのは、本当に辛かったです。もっと両親と一緒に過ごしたかった。

過去の犯歴は決して消せません。それは間違いありません。しかし、再チャレンジを受け入れてくれるこの国に生まれたことを感謝しています。だから、刑期を FBI で働きながら終えることができました。

 

そして、テキサスで今の妻と出会いました。自分の人生を話し、それを受け入れてくれたのが彼女でした。彼女との出会いは、私の人生を大きく変えてくれました。

今では、素敵な妻と息子に恵まれ、とても幸せです。

 

私自身には、お金も、人生の目標も、技術も、学歴も、何もありません。そんな何もない人間であるにもかかわらず、スティーブン・スピルバーグ監督は、素晴らしい映画を作ってくれました。

ただ、私が考える本当の男とは、妻を愛し、子供と一緒に過ごすことを大切にしてくれる人間だと考えています。そして私は、そんなよい夫、そして偉大な父でありたいと思っています。

 

皆様にも幸福が訪れますように。

ご清聴、ありがとうございました。


 

次回は、ホワイトカラー犯罪と不正における犯罪学の発展を取り上げる所存です。

(株式会社ディー・クエスト 公認不正検査士 山本 真智子)


[図1] 参考文献 1. より

参考文献

  1. "Catch Me if You Can: A Lesson in Security and Identity Management", FedTalks 2013
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